スプートニクの恋人

ビロードのカーテンをそっと引くときのような音

穏やかな朝の自然光で大事な人の目を覚まさせるために、ビロードのカーテンをそっと引くときのような音だった。

内省的なピアニストが歳月をかけて磨き上げた短めのカデンツァを思わせる、自動的な優雅さ

ウェイターが新しいグラスに注いだ赤ワインを宙にかざして注意深く眺め、香りを確かめ、それから静かに最初のひとくちを口に含んだ。一連の動作は、内省的なピアニストが歳月をかけて磨き上げた短めのカデンツァを思わせる、自動的な優雅さをもっておこなわれた。

猛禽類のような顔つき

猛禽類のような顔つきをしたウェイターがすかさず背後にやってきて、空になった大きなグラスに氷水をついだ。

洞窟に閉じこめられた盗賊のうめき声みたい

大きなグラスに氷水をついだ。そのからからという音がすみれの混乱した頭の中で、洞窟に閉じこめられた盗賊のうめき声みたいにうつろに反響した。

おばあさんが針に糸を通せないみたい

枕もとの目覚まし時計に目をやった。とても大きな針で、夜光塗料もしっかり塗られているはずなのだけれど、なぜか数字が読みとれなかった。網膜に映しだされたイメージと、それを受け取って分析する脳の部位がかみあっていないのだ。おばあさんが針に糸を通せないみたいに。

かつてスコット・フィッツジェラルドが「魂の暗闇」と読んだ時刻

あたりがまだ真っ暗で、それはかつてスコット・フィッツジェラルドが「魂の暗闇」と読んだ時刻らしい、ということくらいだった。

気の毒なお月さまが、東の空の隅っこに、使い古しの肝臓みたいにぽこっと浮かんでいるような時刻に

「…気の毒なお月さまが、東の空の隅っこに、使い古しの肝臓みたいにぽこっと浮かんでいるような時刻に。…」

ペテルスブルグ行きの汽車がやってくる前に、年老いた踏み切り番が踏切をかたことと閉めるみたい

「ねえ」とすみれは言った。そして微妙な間をおいた。ペテルスブルグ行きの汽車がやってくる前に、年老いた踏み切り番が踏切をかたことと閉めるみたいに。

峠の砦にこもったスパルタ人みたい

ダイエットの必要があるとも思えない。しかしおそらく彼女は、今自分が手にしているものを寸分の妥協もなく護りきろうと決意しているのだろう。峠の砦にこもったスパルタ人みたいに。

白い月が賢いみなしごのように寡黙に空に浮かんでいた

窓のカーテンを引くと、白い月が賢いみなしごのように寡黙に空に浮かんでいた。

ふさふさした尻尾を切り取られた動物みたい

すみれは煙草をやめようと決心したわけだが、一日にマルボロを二箱は吸っていたから、ものごとはそんなにすんなりとは運ばなかった。それから一ヶ月ばかり、ふさふさした尻尾を切り取られた動物みたいに、彼女は精神のバランス(もともとそれは彼女を特徴づける資質とは言いがたいのだが)を失っていた。

クリスマスと夏休みと生まれたての仔犬がいっしょになったみたい

「あなたってときどきものすごくやさしくなれるのね。クリスマスと夏休みと生まれたての仔犬がいっしょになったみたいに」

広々としたフライパンに新しい油を敷いたときのような沈黙

何を言えばいいのかわからなかったので、ぼくは黙っていた。広々としたフライパンに新しい油を敷いたときのような沈黙がしばらくそこにあった。

古い枕木のように疲れ果てて

そんなわけでぼくは古い枕木のように疲れ果てて帰宅した。

畑の真ん中で誰かがつぶやいている牧歌的なひとりごとみたい

「君こそなんにもわかってない。世間のたいていの人は太陽の下で働いて、夜中には電気を消して寝るんだ」とぼくは抗議した。でもそれはかぼちゃ畑の真ん中で誰かがつぶやいている牧歌的なひとりごとみたいに聞こえた。
「このあいだ新聞に出てたんだけど」、すみれはぼくの発言をあたまから無視して言った。

ジャン・リュック・ゴダールの古い白黒映画の台詞みたい

「だからといってわたしのことを嫌いになったりしないでね」とすみれは言った。彼女の声はジャン・リュック・ゴダールの古い白黒映画の台詞みたいに、ぼくの意識のフレームの外から聞こえてきた。

知的難民のように

窓にはカーテンもなく、本棚に入りきらない多くの本が知的難民のように床に積み上げられていた

『マック・ザ・ナイフ』の入っていない『ベスト・オブ・ボビー・ダーリン』みたい

「(中略)君のいないぼくの生活は、『マック・ザ・ナイフ』の入っていない『ベスト・オブ・ボビー・ダーリン』みたいなものだ」
すみれは目を細めてぼくの顔を見た。「比喩のディテイルがもうひとつよく理解できないんだけれど、それはつまりすごくさびしいってことなの?」
「だいたいそういうことになるかな」とぼくは言った

さっきできたばかりのようなすてきな耳

彼女の髪は髪留めで後ろにまとめられ、ちいさなかたちのいい耳が露出していた。さっきできたばかりのようなすてきな耳だった。

悪魔の汗みたいに濃いエスプレッソ・コーヒー

わたしは今、ローマの路地の奥にある屋外カフェで、悪魔の汗みたいに濃いエスプレッソ・コーヒーをすすりながらこの手紙を書いているのですが

エジプトのピラミッドでときどき発見される昔の小さな甲虫を想像させる

差出人の名前は書いてなかったけれど、字を見ればそれがすみれからのものであることはすぐにわかった。象徴的で、濃密で、硬くて、非妥協的な字だ。エジプトのピラミッドでときどき発見される昔の小さな甲虫を想像させる。今にもぞろぞろと動き出して、そのまま歴史の闇の中にあと戻りしてしまいそうだ。

風の強い夜に、高い石壁にわけもなく予定もなく信条もなくただへばりついている無意味な虫のような気持ち

そう考えると、ぼくはせつない気持ちになった。風の強い夜に、高い石壁にわけもなく予定もなく信条もなくただへばりついている無意味な虫のような気持ちだった。

カーディガンのボタンを掛け違えたみたい

シーツにはまだ午後のセックスの記憶がかすかに残っていたし、カーディガンのボタンを掛け違えたみたいに、すべての物事が一段階ずつ現実との接点を失っていた。

曇り空をそのまま飲み込んでしまったような気分

ぼくは嫌な汗をかいて目を覚ました。湿ったシャツがべっとりと胸にはりついていた。身体がだるく、脚がむくんでいた。まるで曇り空をそのまま飲み込んでしまったような気分だ

まるで傷つきやすい動物を扱うみたいに

彼らは買った品物を、まるで傷つきやすい動物を扱うみたいに大事そうに足元に置いていた。

身体の向こう側まで透けて見えるんじゃないかという気がするくらい激しい空腹感

ひどく腹が減っていた。身体の向こう側まで透けて見えるんじゃないかという気がするくらい激しい空腹感だった。

陽気な拷問者のように

肉を焼いたり、魚をあぶったりする香ばしい匂いがどこからともなく漂ってきて、陽気な拷問者のようにぼくの内臓を締め上げた。

まるで詩人が句読点を整理するみたいに

彼女はオリーブをひとつ口に入れ、指で種をつまみ、まるで詩人が句読点を整理するみたいに、とても優雅にそれを灰皿に捨てた。

染料を流し込んだような鮮やかな夕闇

店の外に出ると、染料を流し込んだような鮮やかな夕闇があたりを包んでいた。空気を吸い込んだら、そのまま胸まで染まってしまいそうな青だった。

始まりも終わりもない個人的な記憶の中にひたっているみたいに

ミュウは椅子に身体を沈めたまま、ずいぶん長いあいだ黙りこんでいた。語るべき言葉を探しているというよりは、始まりも終わりもない個人的な記憶の中にひたっているみたいに見えた。

陰鬱な祭司のように

月は陰鬱な祭司のように冷たく屋根の上にいて、その両手に不妊の海を捧げ持っている。

草むらの中の無口な蛇のよう

そのようなずれの与える違和感は、小学校を出る頃にはずいぶん減っていった。まわりの世界のあり方に自分をあわせていく方法を、ある程度まで私は覚えた。でもずれそのものは、大学をやめて、公式な人との関わりをたってしまうまでずっとわたしの中にあった。
草むらの中の無口な蛇のように。

重ねられたふたつのスプーンのようにぴたりと

わたしは重ねられたふたつのスプーンのようにぴたりとミュウのそばにいて

何かの首を素手で折るときのような乾いた不吉な音

わたしはまず右手の五本の指のつけねをぽきぽきと鳴らし、それから左手の五本の指のつけねをぽきぽきと鳴らす。自慢するわけじゃないけれど、わたしはとても大きな音を—何かの首を素手で折るときのような乾いた不吉な音—威勢良く立てることができる。

麦茶一杯ほどの興味

わたしは今のところそんな人に対して麦茶一杯ほどの興味だって持てないのだ。

見通しのわるいカーブの前でいつも汽笛を鳴らす夜汽車のように

そこではひとつのテーマが繰り返し反復されている。見通しのわるいカーブの前でいつも汽笛を鳴らす夜汽車のように。

きづなを解かれた魂のように

ガウンの下にはなにもつけていなかった。脱いだガウンはドアの外の空間に捨てた。それはきづなを解かれた魂のように、風に乗ってさまよい、遠くに消えていった。

間違って不適当なものを飲み込んでしまったときのような奇妙な表情

彼らは彼女のパスポートの写真とミュウの顔を見比べ、眉をしかめる。間違って不適当なものを飲み込んでしまったときのような奇妙な表情を顔に浮かべる

敗残部隊を再編成するように

そしてぼくはぼくなりに混乱し、疲れていた。それでもあたかも敗残部隊を再編成するように、自分の中に残っている集中力を-太鼓もラッパもなしに-ひとつにかき集めた。

引用元:『スプートニクの恋人』 村上春樹