ダンス・ダンス・ダンス

狡猜な水のように

僕は念のためにライトを消してみた。でも同じだった。そこに光はなかった。完璧な闇が狡猜な水のように音もなく僕らを包んだ。

老人斑のような宿命的な

カーペットは擦り切れ、廊下はところどころへこんでいた。漆喰の壁には老人斑のような宿命的な染みがついていた。いるかホテルだ、と僕は思った。

木の葉の間からこぼれる夏の夕暮れの最後の光のような

「シェーキーズ」と五反田君は言った。「ピッツァでも食べないか?」
「僕は別に構わない。ピッツァは嫌いじゃない。でもそんなところに行って、君の顔は割れないかな?」
五反田君は力なく微笑んだ。木の葉の間からこぼれる夏の夕暮れの最後の光のような微笑みだった。「君はこれまでシェーキーズで有名人を見掛けたことある?」

広大な海面に降りしきる雨のような

結局のところキキは死ぬべくして死んでしまったのだという感じがした。
不思議な感じ方だったが、僕にはそういう風にしか感じられなかった。僕が感じたのは諦めだった。広大な海面に降りしきる雨のような静かな諦めだった。僕は哀しみをさえ感じなかった。魂の表面にそっと指を走らせるとざらりとした奇妙な感触があった。すべては音もなく過ぎ去っていくのだ。砂の上に描かれたしるしを風が吹きとばしていくように。それは誰にも止めようがないことなのだ。

上品な動物の清潔な内臓のひだのよう

それは質問ですらなかった。僕は彼女のブラウスの襟もとのレースを眺めていた。それは上品な動物の清潔な内臓のひだのように見えた。

品のいいゴミ箱みたいに

「気の毒だけれど、彼はそういうタイプの人間だったんだ」と僕は言った。「悪い男じゃない。ある意味では尊敬にさえ値する。でもときどき品のいいゴミ箱みたいに扱われる。」

まるでカフェ・オ・レの精みたい

すごく元気そうに見えるよ。日焼けがたまらなく魅力的だ。まるでカフェ・オ・レの精みたいに見える。

もしシリアスな宇宙人がそこに居合わせたらたぶんタイム・ワープか何かだと思っただろう

ビールがなくなるとカティー・サークを飲んだ。そしてスライ&ザ・ファミリー・ストーンのレコードを聴いた。ドアーズとかストーンズとかピンク・フロイドとかも聴いた。ビーチ・ボーイズの「サーフズ・アップ」も聴いた。60年代的な夜だった。ラビン・スプーンフルもスリー・ドッグ・ナイトも聴いた。もしシリアスな宇宙人がそこに居合わせたらたぶんタイム・ワープか何かだと思っただろうと思う。

セルゲイ・ラフマニノフみたいな深刻な

僕らはハレクラニのバーに行った。プールサイド・バーじゃない方の室内のバーだった。僕はマティーニを飲み、ユキはレモン・ソーダを飲んだ。セルゲイ・ラフマニノフみたいな深刻な顔をした髪の薄い中年のピアニストが、グランド・ピアノに向かった黙々とスタンダード・ナンバーを弾いていた。

静かな水面に木の葉が落ちた時のように

「悪かった」
それから彼女は僕の顔を見た。彼女の目は一瞬凍りついたように見えた。瞳がふっとその色を失い、静かな水面に木の葉が落ちた時のように表情が微かに揺れた。

線を切られてしまった電話機のような

でももう何の物音も聞こえなかった。
全ては死に絶えていた。線を切られてしまった電話機のような完璧な沈黙だった。

抑圧された夢みたいに

二人は抑圧された夢みたいに妙にリアルな非現実性を漂わせながら、僕の視点を右から左へとゆっくりと横断して消えていった。

あたかも妥当な場所に気のきいた装飾句を挿入するかのように

それからアメは僕のところに来て、隣に腰を下ろし、シャツのポケットからセイラムの箱を出して紙マッチで火をつけた。詩人はどこかから灰皿を持ってきて、それをテーブルの上に優雅にとんと置いた。あたかも妥当な場所に気のきいた装飾句を挿入するかのように。

家の回りに何千人もの透明な沈黙男がいて、透明な無音掃除機でかたっぱしから音を吸い取っているような

何か音がしてもそれはあっとういう間に痕跡ひとつ残さず静けさの中に吸い込まれてしまった。家の回りに何千人もの透明な沈黙男がいて、透明な無音掃除機でかたっぱしから音を吸い取っているような気がした。

清潔な疫病神のように

ディスク・ジョッキーはノン・ストップでポップ・ソングを流しつづけていた。そんなわけで、僕はその春に流行っていた曲をよく覚えている。マイケル・ジャクソンの唄が清潔な疫病神のように世界を覆っていた。

ピカソの「オランダ風の花瓶と髭をはやした三人の騎士」

牧村拓はまた黙ってゴルフ・クラブを睨んでいた。
「変わっている」と彼は言った。「君は俺に何かを連想させる。なんだろう?」
「何でしょうね?」と僕は言った。何だろう? ピカソの「オランダ風の花瓶と髭をはやした三人の騎士」だろうか?

まるで沖の方で誰かがシーツをそっと揺すっているみたいに

町中を抜けて辻堂の海にでると、僕は松林のわきの駐車スペースの白い線の中に車を停めた。車の姿は殆どなかった。少し歩こうと僕はユキに言った。気持ちの良い四月の午後だった。風らしい風もなく、波も穏やかだった。まるで沖の方で誰かがシーツをそっと揺すっているみたいに小さく波が寄せ、そして引いていった。

二日酔いの朝みたいに薄暗くて物哀しい

ユキはしばらくして二日酔いの朝みたいに薄暗くて物哀しいフィル・コリンズの唄にあわせてハミングしてから、もう一度サングラスを手にとってつるをいじった。

淀んだ深い川のように

午後は淀んだ深い川のように静かに流れていった。こつこつという時計の音が部屋に響いているだけだった。

まるで玄関マットを見るときのような

少しすると彼の知り合いらしい四十前後の身なりの良い男がやってきて、彼の肩をぽんと叩き、よう、久し振りと言った。きらきらと眩しくて思わず目をそらせたくなるような見事なロレックスを腕にはめていた。彼は最初に五分の一秒くらいちらっと見たが、僕の存在はそれっきり忘れられた。まるで玄関マットを見るときのような目付きだった。

ききわけの良い巨大な魚のように

五反田君は一時間ほどしてから来てくれと運転手に言った。メルセデスはききわけの良い巨大な魚のように、音もなく夜の闇の中に消えていった。

しんとした夜更けによく響く鐘をうち鳴らしたみたいに

僕は五反田君の声のことなんてそれあで気にしたこともなかったし、思い出したこともなかったけれど、それでもその声はしんとした夜更けによく響く鐘をうち鳴らしたみたいに僕の頭の片隅にこびりついていた潜在的記憶を一瞬にしてありありと蘇らせた。たいしたものだな、たしかに、と僕は思った。

暗流を遡る冷ややかな鮭の群れのように

渋谷に着いた時にはもう日は暮れていた。坂の上から見ると、色とりどりのネオンがともり始めた街の通りを、黒々としたコートに身を包んだ無表情なサラリーマンたちが暗流を遡る冷ややかな鮭の群れのように均一な速度で流れていた。

ひびの入ったダチョウの卵を温めるみたいな

「ねえ」とユキが言った。そして少し間を置いた。「あなた札幌のあのホテルで羊の毛皮をかぶった人を見たでしょう?」
僕はひびの入ったダチョウの卵を温めるみたいな格好で 電話機を胸に抱えてベッドに腰を下ろした。

何かしら非現実的な材料で作った精密な彫像みたいに

ユキは飛行機が離陸するとすぐに眠りこんでしまった。彼女の寝顔はすばらしく綺麗だった。何かしら非現実的な材料で作った精密な彫像みたいに美しかった。

ドイツ・シェパードが立ったまま一匹入りそうなくらい

十分後に女の子がボーイと一緒にロビーに下りてきた。ボーイはサムソナイトの大きなスーツケースを持っていた。ドイツ・シェパードが立ったまま一匹入りそうなくらい大きなスーツケースを持っていた。

新月のように淡く物静かな

「もちろん会えるよ」と僕は言った。
彼女は新月のように淡く物静かな微笑みを浮かべた。

冷凍された死体のように

雪はますます激しく降り、殆ど前も見えないくらいだった。街全体が冷凍された死体のように絶望的に固く凍りついていた。

猿が粘土を壁にぶっつけるみたい

彼はハンサムで感じがいいだけではなく、過去の傷を背負っていた。学生運動にかかわってどうこうとか、恋人を妊娠させて捨ててどうこうというようなかなり月並みな傷だったが、まあ何もないよりはましだった。ときどきそういう回想が猿が粘土を壁にぶっつけるみたいに不器用に挿入された。

猛烈なスピードで走る特急列車の窓から駅名表示を読み取ろうとするときの

何かを考えるには僕の頭は疲れすぎていたが、かといって眠ることもできない。僕の体と精神の殆どの部分は眠りを希求していた。それなのに頭の一部が固くこわばったまま頑なに眠ることを拒否して、そのせいで神経がいやにたかぶっていた。それはちょうど猛烈なスピードで走る特急列車の窓から駅名表示を読み取ろうとするときの苛立たしさに似ていた。

引用:『ダンス・ダンス・ダンス』 村上春樹