レキシントンの幽霊

まるで柔らなかな木槌みたいに

これという意味もなく、手の中で何度かくるくるまわしてみた。その銀色のコインは僕に、ソリッドな現実の感覚を思い出させてくれた。
何かが、まるで柔らなかな木槌みたいに僕の頭を打った。

床にこぼれた豆を集めるみたい

壁を点検し、カーペットを眺め、高い天井を見上げた。それから床にこぼれた豆を集めるみたいに、意識をひとつひとつ拾い上げて、自分の体を現実になじませた。

しなびた野菜みたい

目が覚めたとき、空白の中にいた。自分がどこにいるのかわからなかった。僕はしばらくのあいだ、しなびた野菜みたいに無感覚だった。

まるでぴたりとサイズの合ったひとがたに自分を埋め込んだような

リー・コーニッツの古い十インチ盤をターンテーブルに載せ、机に向かって文章を書いていると、時間は僕のまわりを心地よく穏やかに過ぎ去っていった。まるでぴたりとサイズの合ったひとがたに自分を埋め込んだような心持ちだった。

まるで神殿か聖遺物安置所に対するように

ケイシーはどうやら父親が死んだあと、この音楽室には ———まるで神殿か聖遺物安置所に対するように——— 一切手を加えなかったらしい。

「べつに吠えたいわけではないのだけれど、いちおうそうするように決められているから」という風に

僕がBMWの後ろに車を停めると、玄関の足拭きの上に寝そべっていた大型のマスチフ犬が、ゆっくりと立ち上がって、二三度、半ば義務的に吠えた。「べつに吠えたいわけではないのだけれど、いちおうそうするように決められているから」という風に。

まるで馬が特別な樹の匂いに魅せられるように

その田上を読んでから、彼のコレクションが見たくてたまらなくなってしまった。古いジャズ・レコード・コレクションがからんでくると、まるで馬が特別な樹の匂いに魅せられるように、僕は精神的な抵抗力を失ってしまうのだ。

引用:『レキシントンの幽霊』 村上春樹