偶然の旅人

打ちそびれた句読点のように

時間がたって、女の顔やプジョーの像が消えたあとでも、そのほくろのかたちだけはくっきりと残った。その小さな黒い点は、目を開けても目を閉じてもそこに浮かび、打ちそびれた句読点のようにひそやかに、しかし止むことなく彼の心を揺さぶった。
(『東京奇譚集』収録)

軽度の奇跡

オリジナル盤で、盤質は新品同様だった。値段は7ドルか8ドルだったと思う。僕は日本盤でこのアルバムを持っていたが、長く聴き込んでいるから疵もついているし、こんな値段で盤質の良いオリジナル盤が買えるなんて、大げさに言えば「軽度の奇跡」に近いことである。
(『東京奇譚集』収録)

引用:『偶然の旅人』 村上春樹

三つのドイツ幻想

まるで、巨大なペニスを讃えるといった格好

白っぽいブロンドで、ブルー・アイズで、胴がきりっとしまっていて、笑顔が可愛い。彼女はまるで、巨大なペニスを讃えるといった格好でビールのジョッキを抱え、我々のテーブルに運んでくる。
(『蛍・納屋を焼く・その他の短編』収録)

季節の最後のブリザードのような

しかし1945年の春にロシア軍が季節の最後のブリザードのような格好でベルリンの街に突入してきたとき、ヘルマン・ゲーリング要塞はじっと黙したままであった。
(『蛍・納屋を焼く・その他の短編』収録)

引用:『三つのドイツ幻想』 村上春樹

七番目の男

まるで全速力で走ってくる無慈悲な機関車に正面から衝突するような

次の瞬間にはもう波は彼を呑み込んでいました。まるで全速力で走ってくる無慈悲な機関車に正面から衝突するようなものでした。
(『レキシントンの幽霊』収録)

引用:『七番目の男』 村上春樹

レキシントンの幽霊

まるで柔らなかな木槌みたいに

これという意味もなく、手の中で何度かくるくるまわしてみた。その銀色のコインは僕に、ソリッドな現実の感覚を思い出させてくれた。
何かが、まるで柔らなかな木槌みたいに僕の頭を打った。

床にこぼれた豆を集めるみたい

壁を点検し、カーペットを眺め、高い天井を見上げた。それから床にこぼれた豆を集めるみたいに、意識をひとつひとつ拾い上げて、自分の体を現実になじませた。

しなびた野菜みたい

目が覚めたとき、空白の中にいた。自分がどこにいるのかわからなかった。僕はしばらくのあいだ、しなびた野菜みたいに無感覚だった。

まるでぴたりとサイズの合ったひとがたに自分を埋め込んだような

リー・コーニッツの古い十インチ盤をターンテーブルに載せ、机に向かって文章を書いていると、時間は僕のまわりを心地よく穏やかに過ぎ去っていった。まるでぴたりとサイズの合ったひとがたに自分を埋め込んだような心持ちだった。

まるで神殿か聖遺物安置所に対するように

ケイシーはどうやら父親が死んだあと、この音楽室には ———まるで神殿か聖遺物安置所に対するように——— 一切手を加えなかったらしい。

「べつに吠えたいわけではないのだけれど、いちおうそうするように決められているから」という風に

僕がBMWの後ろに車を停めると、玄関の足拭きの上に寝そべっていた大型のマスチフ犬が、ゆっくりと立ち上がって、二三度、半ば義務的に吠えた。「べつに吠えたいわけではないのだけれど、いちおうそうするように決められているから」という風に。

まるで馬が特別な樹の匂いに魅せられるように

その田上を読んでから、彼のコレクションが見たくてたまらなくなってしまった。古いジャズ・レコード・コレクションがからんでくると、まるで馬が特別な樹の匂いに魅せられるように、僕は精神的な抵抗力を失ってしまうのだ。

引用:『レキシントンの幽霊』 村上春樹

トニー滝谷

生暖かい闇の汁のように

孤独が生暖かい闇の汁のようにふたたび彼を浸した。
(『レキシントンの幽霊』収録)

まるで細いパイプに静かにしかし確実にごみが溜まっていくみたい

しかししばらく演奏を聴いているうちに、まるで細いパイプに静かにしかし確実にごみが溜まっていくみたいに、その音楽の中の何かが彼を息苦しくさせ、居心地悪くさせた。
(『レキシントンの幽霊』収録)

まるで遠い世界へと飛び立つ鳥が特別な風を身にまとうよう

ただ単に上手い着こなしをする女ならけっこういた。これ見よがしに着飾っている女はそれ以上に沢山いた。でも彼女はそんな女たちとはぜんぜん違っていた。彼女はまるで遠い世界へと飛び立つ鳥が特別な風を身にまとうように、とても自然にとても優美に服をまとっていた。
(『レキシントンの幽霊』収録)

何か平板な、円盤のようなものがすっぽりと胸の中に入っているような

子供が生まれた三日後に母親は死んだ。(中略)
滝谷省三郎はそれについていったいどう感じればいいのか、自分でもよくわからなかった。彼はそういう感情に対して不案内だったのだ。何か平板な、円盤のようなものがすっぽりと胸の中に入っているような気がした。
(『レキシントンの幽霊』収録)

引用:『トニー滝谷』 村上春樹

タイランド

運勢でも占うみたいな

灰色の毛をした猿たちは道路沿いに並んで座り、走りすぎていく車を、運勢でも占うみたいな目つきでじっと眺めていた。
(『神の子どもたちはみな踊る』収録)

引用:『タイランド』 村上春樹

めくらやなぎと眠る女

まるで狡猾な動物みたいに

新しい型の大型バスはまるで狡猾な動物みたいにアスファルト道路にぴったりと貼りつき、くぐもった音を立てながら斜面をかけのぼっていった。
(『蛍・納屋を焼く・その他の短編』収録)

ずっと昔に聞いた雨の音のように

しかし今こうして、小首をかしげるような格好で左耳をじっと僕の方に向けているいとこの姿を見ていると、僕は妙に心を打たれた。ずっと昔に聞いた雨の音のように、彼の不器用に誇張された一挙一動が、しっくりと僕の体になじんだ。
(『蛍・納屋を焼く・その他の短編』収録)

引用:『めくらやなぎと眠る女』 村上春樹

めくらやなぎと、眠る女

細いナイフの先でコルクの栓をほじくるみたい

プラスチックの椅子の上でからだの位置を変え、頬杖をついたまま、記憶の層を掘り返してみる。細いナイフの先でコルクの栓をほじくるみたいに。
(『レキシントンの幽霊』収録)

まるで項目べつに並んだ何かのサンプルの引き出しをひとつ抜きだして、そのまま持ってきたみたい

男の多くは登山用の厚手のシャツを着て、女の多くは飾りのない簡素なブラウスを着ていた。みんな不思議なくらい似た外見をしていた。まるで項目べつに並んだ何かのサンプルの引き出しをひとつ抜きだして、そのまま持ってきたみたいに見えた。
(『レキシントンの幽霊』収録)

翼をもぎ取られた大型爆撃機みたい

僕が高校に通っていたころに比べると、バスのかたちは新しくなっていた。運転席の窓ガラスが大きく、翼をもぎ取られた大型爆撃機みたいに見えた。
(『レキシントンの幽霊』収録)

果実のようなふくらみを持った

目を閉じると、風の匂いがした。果実のようなふくらみを持った五月の風だ。
(『レキシントンの幽霊』収録)

引用:『めくらやなぎと、眠る女』 村上春樹

どこであれそれが見つかりそうな場所で

さっき川を渡り終えたばかりの長毛狩猟犬みたい

私の場合、髭は剃っていたが、髪がいささか伸びすぎていた。耳の後ろのところがはねあがっていて、さっき川を渡り終えたばかりの長毛狩猟犬みたいに見えなくもない。
(『東京奇譚集』収録)

引用:『どこであれそれが見つかりそうな場所で』 村上春樹

UFOが釧路に降りる

毛の短い有蹄類を連想させるような

一人は色白で、170センチ近く、髪が短い。鼻から盛り上がった上唇にかけて、毛の短い有蹄類を連想させるような、妙に間延びしたところがあった。
(『神の子どもたちはみな踊る』収録)

引用:『UFOが釧路に降りる』 村上春樹